【徳川家康】三方ヶ原の戦い 浜松での言い伝え

こんにちは。大河ドラマ【どうする家康】、面白いですね。
毎回楽しみに観ています。
そんな徳川家康の青年期に関する物語は、静岡県浜松市を中心に展開されていきます。私も浜松市に住んでいたので、今回は家康の伝承をご案内致します。

これを読めば、家康の戦いぶりがよくわかりますよ。

簡単な内容となっているのでぜひ最後までご一読ください。

目次

小豆餅(あずきもち)、銭取(ぜにとり)の由来

家康は、浜松城を通り過ぎる武田信玄の軍勢を背後から追撃しますが、結果として敗走します。

家康が逃げる途中、浜松の茶屋のおばあさんから、小豆餅を取ったとの言い伝えが残っています。その場所は、小豆餅という地名になりました。
また、そのおばあさんが家康を追いかけ、家康から餅の代金をもらった土地が銭取として今も残ってます。

伝承ですが面白いですよね。浜松でも家康が愛されていたのがわかる伝承ですね。

空城の計


また、家康は城に帰ると湯漬けを食べいびきをかいて眠ったとのこと。
浜松城にかがり火を焚き、門をあけ、兵士は横に移動しながら兵数を多く見せかけたそうです。
結果、武田方の山県昌景(やまがたまさかげ)隊は、城内に突入することなく引き上げました。

この絶体絶命ピンチの戦いを経て(伊賀越えもそうですが)、家康は更に成長していったのではないかと伺えますね。

布橋の由来

敗走した家康ですが一矢報いようと大久保忠世隊と天野康景隊に命令を出し犀ヶ崖(さいががけ)にて、夜襲を試みました。
雪の中白い布を崖にかけ、橋のように見せ、混乱した武田軍の兵士たちが崖から落ちていきました。
この土地は布橋という地名で今も残っています。

ちなみに亡くなった武田軍のうめき声が聞こえてくるようになったので、家康は三河の了伝上人を招いて供養しました。現在の遠州大念仏踊りの発祥となっています。

現在、布をかけた話自体は、伝承上のものとされています。
実際に犀ヶ崖を見た記憶では、意外に狭くて深いと思いました。
土地勘のない兵士が落ちていくのもわかります。

門松の由来

門松自体は、平安時代のからのものですが三方ヶ原の戦いを経て竹を斜めに切ったのは、家康だったといわれています。
今度、武(竹)田軍に会ったら次は斬る(切る)という決意だそうですよ。

一富士 二鷹 三茄子

三方ヶ原の戦いとは、少し関係のないものですが、初夢には見るとよいとされる縁起物。これは家康の好きだったもの(駿府の大御所時代か)からの由来という説があります。
富士は不死、鷹は高い、茄子は成す。
という意味合いもあるそうですね。

以上が、一富士、二鷹、三茄子の由来でした。

まとめ

今回は以下の内容を紹介してきました。

  • 小豆餅、銭取の由来
  • 空城の計
  • 布橋の由来
  • 門松の由来
  • 一富士、二鷹、三茄子

いかがだったでしょうか。武田信玄の軍勢に敗北した徳川・織田連合軍。
家康はのちに、武田信玄が亡くなったとき、軍略を教えてもらったと手を合わせたそうです。

この三方ヶ原の戦いの前哨戦”一言坂の戦い”では、本多平八郎忠勝が活躍しますね。機会があれば執筆させてもらいます。

それでは。読んでいただきありがとうございました。

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この記事を書いた人

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